令和7年11月法話会動画『法話会 御正忌報恩講 信心はいただくもの』を配信しています。
どうぞご覧ください。
今年も報恩講が近づきました。
報恩講で拝読される『御伝鈔』、上巻第七段のお話です。
他力の信心は、「ああでもあろうか、こうでもあろうか」と、
中々とらえにくいものです。
自分で思案して信じる自力の信心ではなくて、
阿弥陀仏より賜るのが他力の信心であることが、
親鸞聖人の故事によって、わかりやすく示されています。
『御伝鈔・上巻第七段』
上人 親鸞 のたまはく、いにしへわが大師聖人 源空 の御前に、
聖信房・勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、
はかりなき諍論をしはんべることありき。
そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」
と申したりしに、このひとびととがめていはく、
「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。
善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、
まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、
ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。
しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。
かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、
大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、
「信心のかはると申すは自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。
他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、
源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。
わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、
わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。
ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。


