令和7年10月法話会動画『法話会 南無阿弥陀仏のお話6』を配信しています。
どうぞご覧ください。
浄土真宗には2つの回向があります。
極楽へ向かうときの往相回向と、
極楽へ往生した後、再びこの世に還って他の衆生を済度する還相回向です。
衆生済度を行う徳の高い人を、慕う側から拝むときは「還相の菩薩」ですが、
自分のことを「還相の菩薩」だと主張したりすると
顰蹙(ひんしゅく)を買うものです。
また、この世では
私たちは阿弥陀仏からいただいた信心によって 極楽往生が約束されますが、
往生、成仏、還相は来世、死後のことです。
歎異鈔には、
「煩悩をそなえた身でありながら、現世でさとりを開くなど有り得ないことだ」と厳しく戒められています。
※動画後半、2025.10.4 お月見コンサートでの様子も配信しております。
本願寺僧侶による、正信偈(草四句目下)をお聞きください。
『歎異鈔・15』煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。
この条、もつてのほかのことに候ふ。 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。
これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、
きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。
いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、
生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、
煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、
尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。
この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、
三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。
これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。
『和讃』(高僧和讃)にいはく、
金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてける
と候ふは、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。
しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。
かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。
「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、
故聖人(親鸞)の仰せには候しか。


